
トウルヌソル号。フランス語で「ひまわり」。目黒区にも競馬場があったって。
目黒競馬場跡には、住宅や小学校などが建ち、競馬場外周の道路や、目黒通りのバス停「元競馬場前」だけが当時の面影を残すのみである。
当時、明治政府は、日露戦争でロシアの馬に対して日本の馬が著しく劣り苦戦を強いられたことから、軍馬の改良・増産を目指して競馬を奨励していた。日本競馬会は、こうした政策に応えるということで明治40年3月(1907年3月)に設立されたが、前年の池上競馬場で実証された多大な収益性も大きな動機付けとなっていた。
日本競馬会が山手線目黒駅から1キロメートル程離れた土地に開設した、目黒競馬場は、総面積が約21万平方メートルあり、調教馬場のほか、出走馬をファンに見せる引馬場(パドック)も併設するなど、当時としては目新しい設備をそろえたものであった。観覧スタンドは、貴賓室などを設けた3階建ての1号館と、間口が48間ある2号館から成っていた。
目黒競馬場での第1回競馬の開催は、明治40年12月(1907年12月)のことであった。初日から好評を博し、レースの展開に一喜一憂する観客の中には婦人の姿も見られ、清国大使の観覧もあったという。
しかし、競馬が全国的に人気を得ると破産者も出始め、風紀の乱れを懸念した明治政府が明治41年(1908年)に馬券の販売を禁止した。
馬券が販売されなくなると、観客が減り、目黒競馬場も経営が厳しくなった。
大正3年(1914年)、恵夫競馬場は、勝馬の的中者に、デパートの商品券を贈呈するという余興を始めた。この趣向は、たちまち1万2,000人を超える観客を呼び込み、馬券が復活するまでの間、観客の興味をつなぎとめたのである。
やがて馬券の効用を見直した政府は、馬券発売を認める「競馬法」を制定した。大正12年(1923年)、新競馬法の下で初めて開催された競馬は、同年9月の関東大震災による惨事の直後にもかかわらず、1万6,000人を超す入場者を集めた。さらに翌年秋には、優に2万5,000人の入場者を数えた。馬券復活で目黒競馬場は、再び活気を取り戻したのである。
このような盛り上がりのなかで、4歳馬の日本一を決める第1回「日本ダービー」が、昭和7年4月24日(1932年4月24日)、この目黒競馬場で行われることになったのである。
当日、あいにくの雨模様のなか、晴れの栄冠を勝ち取ったのは、トウルヌソル号の子どものワカタカ号で、単勝式払戻金は39円であった。
ところで目黒競馬場は、競馬ファン以外にも親しまれていた。明治44年(1911年)に、米国の飛行家マースが模範飛行をこころみたり、大正4年(1913年)にはわが国で初めての自動車レースが行われるなど、いろいろな催し物が繰り広げられたのである。しかし、押し寄せる宅地化の波には勝てず、昭和8年(1933年)春季、第2回「日本ダービー」開催を最後に、府中へ移転することになったのである。
目黒競馬場跡の場所はここ