
かつて目黒には、#エビスビール で有名な#サッポロビール株式会社 の#ビール工場 がありました。今回は、エビスビールにまつわるお話です。
◼️ビール産業の始まり
東京に初めて電気が灯された1887年(明治20年)、桂二郎が創立者となって、日本麦酒醸造会社を設立しました。ヨーロッパやアメリカの技術や文化を急速に取り入れた時代にあって、ビールも東京市中に出回るようになり、日本各地でビール会社が設立されるようになりました。日本麦酒醸造会社もその1つで、製造工場を目黒地域の6村の1つ、三田村の大島に求めたのです。
■ドイツの技術・職人と麦芽を導入
工場の敷地は約1万8,848平方メートルで、ドイツから醸造機械および麦芽を購入するとともに技術者を招請し、欧米のものに劣らない質のビール造りを目指しました。麦芽までをも輸入した理由は、当時の国産大麦の品質がビール醸造に適さなかったために、どうしても輸入ビールに対抗できない状況におかれていたためでした。
■ヱビスビールの誕生
1890年(明治23年)、「恵比寿麦酒」という商標でヱビスビールは発売されました。当初の年間販売目標は大瓶換算で300万本。知名度が低いため、輸入ビールに押され、三井物産の事実上の傘下となっていました。ビールそのものの評判は上々であったようです。三井物産から派遣されていた#馬越恭平 (まごし きょうへい)が社長となってからは、社長自身が販売促進にばく進し、1900年(明治33年)には銀座に東京最初のビヤホールを開店するなど、ライバルである麒麟麦酒、大阪麦酒、札幌麦酒とともに、業績を伸ばしていきました。
日本麦酒株式会社は、その後、1906年(明治39年)に大阪麦酒と札幌麦酒と合併して市場シェア70%を超える大日本麦酒株式会社となり、馬越(まごし)は「東洋のビール王」と言われました。
◼️ビール工場を目黒に作った2つの理由
ところで、設立時の資料で見ると、同社の株主に目黒地域の人は見当たりません。それなのになぜ目黒が工場建設用地に選ばれたのでしょうか。
その理由として、まず挙げられるのが水です。ビール造りには良質でしかも多量の水が必要です。俗にビール1本つくるのに、15倍から20倍の水が必要と言われています。三田村を流れる三田用水や、目黒川流域に多くみられる湧き水など、豊富な水が工場建設の誘因となったのです。しかも三田村大島は比較的高台にあり、こうした多量の水を排水するのに大変便利だったのです。
次に、消費市場に近かったということです。交通・運輸機関が発達していない当時、重い瓶に詰められたビールを消費地へ配送するには手間がかかるので、あまり工場が遠いとコストが嵩んでしまいます。ビールの鮮度も損われます。当時の技術水準ではビールの長期保存が無理だったのです。配送という点で、ビールの有力な輸送手段である鉄道(現在の山手線)が1885年(明治18年)に新宿と目黒との間で開通し、工場用地のすぐ脇を通っていたことも理由の1つです。「恵比寿駅」は、1901年(明治34年)にヱビスビール出荷用の貨物駅として作られたのです。
◼️目黒村民とビール
こうして目黒に登場したこの大工場は、地域の近代化に少なからぬ影響を与えなした。目黒村政の面では、同社の納税額がずば抜けて高かったため、財政が潤った一方で、村会にも12人の定員中4人の、今でいう議員を送り込み、村政に対してかなりの発言権をもっていたようです。
また、それまで三田用水を農業用水として利用してきた農民側から、ビール生産に用水を使われては、灌漑用水が不足して困るという訴えが出ます。いわば目黒の農民と工場との間で、水の争奪戦がしばしば起きたのです。
◼️近代的工場の町からスタイリッシュな街へ
1949年(昭和24年)、「過度経済力集中排除法」などによって分割され日本麦酒株式会社となります。復活の声に押されて北海道限定で販売した「サッポロビール」をきっかけにサッポロビール株式会社となったのは、1964年(昭和39年)のことです。
大瓶換算で一日に100万本ものビールを生産していたサッポロビール恵比寿工場は1996年(平成6年)に恵比寿ガーデンプレイスとして工場町からスタイリッシュな街へと生ま変わりました。こうして東京都写真美術館やヱビスビール記念館、映画館などもある複合施設「恵比寿ガーデンプレイス」が誕生したのです。
工場の面影は、#恵比寿ビール記念館 で見ることができます。