
目黒には、歌舞伎の題材になった事件に縁の深い場所があります。今回は、「八百屋お七(やおや-おしち)」にまつわるお話です。
一般に「八百屋お七」として知られる悲恋物語の共通点は、「お七は火事で焼け出され、寺に避難する。彼女は、避難先にいた吉三郎(あるいは吉三)と恋仲になり、恋人に会いたい一心で放火をして自身が火あぶりになる」というものです。
■お七物語の原形『5人の女の恋物語』
歌舞伎の演目『松竹梅湯島掛額(しょうちくばいゆしまのかけがく)』は、井原西鶴が書いた小説『好色五人女(こうしょく-ごにんおんな』が原形となっています。
『好色五人女(こうしょく-ごにんおんな)』は、5人の女の恋物語を描いています。この小説の発刊は「お七」の死後3年経った1686年です。5つの独立した物語で構成されており、すべて当時世間に知られていた実話に基づいたものでした。このうち、「お七」の物語のあらすじは次のとおりです。
■恋草からげし八百屋物語(こいくさ-からげし-やおやものがたり)のあらすじ
年の暮れ、大火に遭い菩提寺に避難した「お七」は、吉祥寺(きっしょうじ)の小姓(こしょう=寺の住職の雑用係)「吉三郎」と恋仲になります。想いが募るお七は、家がまた焼ければ再び「吉三郎」と会えると考え、放火の罪を犯してしまいます。この結果、「お七」は火あぶりの刑に処せられます。後に残された「吉三郎」はそのことを知り自殺しようとしますが、周囲の説得に思いとどまり出家します。
■歌舞伎『松竹梅湯島掛額(しょうちくばいゆしまのかけがく)』
『松竹梅湯島掛額(しょうちくばいゆしまのかけがく)』は、1809年に江戸(今の東京)森田座で初演された福森久助(ふくもり-きゅうすけ)の作品『其往昔恋江戸染(そのむかしこいのえどぞめ)』の「吉祥院の場」と、1856年に江戸(今の東京)市村座で初演された河竹黙阿弥(かわたけ-もくあみ)の作品『松竹梅雪曙(しょうちくばい-ゆきのあけぼの)』の「火の見櫓の場」を繋ぎ合わせた作品です。
歌舞伎の演目では、物語の舞台を鎌倉時代(13世紀)に、「吉祥寺」を「吉祥院」に、「小姓の吉三郎」を「勘当された武家の吉三郎」に、それぞれ設定を変え、また、悲恋の物語を喜劇にして上演されます。
■大圓寺と吉三郎・お七
さて、出家した吉三郎(吉三)のその後はどうなったのでしょう。目黒区下目黒にある大圓寺には、吉三に関してこんな話が残っています。
吉三は出家して西運(さいうん)を名乗り、大圓寺を下った場所(今のホテル雅叙園東京の一部)にあった明王院に身を寄せました。
西運は明王院境内に念仏堂を建立するための勧進とお七の菩提(ぼだい)を弔うために、目黒不動浅草観音に1万日間日参する願掛けをします。雨の日も風の日も、往復約40キロメートルの道のりを、首から下げた鉦(しょう)をたたき、念仏を唱えながら日参したのです。かくして27年後に明王院境内に念仏堂が建立されました。しかし、明王院は明治初めごろ(19世紀中ごろ)に廃寺になったので、明王院の仏像などは、隣りの大圓寺に移されました。
西運に深い関心を持っていた大圓寺の当時の住職であった福田実衍(ふくだ-じつえん)師は、1943年、同寺に念仏堂を再建した際、「万葉集画撰(まんようしゅうがせん)」を描いた大亦観風(おおまた-かんぷう)画伯に「お七吉三縁起絵巻(おしち-きちざ-えんぎ-えまき)」を描いてもらったそうです。その中で描かれた「木枯らしが吹きすさぶなか中で、念仏鉦を力一杯たたき、そして念仏を唱えながら、目黒不動と浅草観音に日参する西運の姿」を刻んだ碑が境内に立っています。