
寒い夜は、ホクホクの焼き芋を食べて温まるなんていうのもいいもの。
数は減ったが、周りに香ばしさを漂わせた焼きイモ屋さんを街中でチラホラ見かける。
焼きイモと言えばサツマイモ。地名がそのまま名前についた芋である。
今から420年ほど前、江戸時代のはじめに、琉球を経てわが国に伝わり、鹿児島県坊ノ津で初めて栽培されている。初めのころの呼び名は様々であり、中国語で未開の国から来た芋という意味の「蕃藷(ばんしょ)」とか、甘いイモという意味の「甘藷(かんしょ)」、また、栗には及ばないが美味しいので、「くり」の音を「九里」に当て、1不足するということで「薩摩八里(サツマバチリ)」と呼ばれたりしていた。その後、江戸幕府が救荒食として「薩摩芋」と呼ばれていた芋の種芋を多く配布し、栽培を奨励したことから「さつまいも」という名が国内に広く知られるようになった。
このサツマイモの栄養価の高さや痩せた土地でも栽培できることを説き、栽培奨励を幕府の政策に乗せたのが甘藷(かんしょ)先生として有名な青木昆陽(あおき こんよう)(1698年~1769年)である。
彼の墓が、目黒不動として知られる瀧泉寺(りゅうせんじ)の裏手にあるのをご存じだろうか。樹木に囲まれ、ひっそりとたたずむこの墓は、国の指定文財(史跡)となっている。
さて、この青木昆陽(あおき こんよう)は、どのような人物だったのであろうか。彼は、江戸日本橋に生まれ、幼い頃からの学問好きであった。1719年に京に上り、儒学者の伊藤東涯(いとう とうがい)に学んだ。昆陽(こんよう)が甘藷(かんしょ)のことを知ったのは、この頃だったといわれている。その後、江戸に帰った彼は私塾を開いていたが、江戸町奉行の大岡忠相(おおおか ただすけ)に推挙され、以降、幕府に仕えた。
1732年に多くの死者を出した大飢饉が起った。昆陽(こんよう)は、甘藷(かんしょ)が地味の肥えていない土地でも十分に生育することに目をつけ「蕃薯(ばんしょ)考」という提言書を著して、これを幕府に提出した。これが将軍の徳川吉宗(とくがわ よしむね)にとりあげられ、甘藷(かんしょ)の試作を命じられた。彼は早速種芋を取寄せ、小石川御薬園(現:文京区白山にある東京大学附属小石川植物園)で試作を始めた。1度は失敗したものの、2度目に良好な結果を得ることに成功した。ここで採れた芋は種芋として各地に配られ、甘藷(かんしょ)栽培が定着するもととなった。この功績から彼は甘藷(かんしょ)先生と称されるようになったのである。「甘薯記(かんしょき)」という本は、「蕃薯(ばんしょ)考」を庶民向けにした栽培指南の本である。
その後、彼は、蘭学研究に打ち込み数々の名書を著し、有数の蘭学者となった。彼は、晩年、現在の大鳥神社の付近に別邸を構えた。現存する墓は、遠く富士山を望む景勝の地である目黒を好んだ彼が生前から居宅の南に建て、自ら「甘藷(かんしょ)先生墓」と記していた物である。
目黒では、甘藷(かんしょ)先生の遺徳を偲んで「甘藷(かんしょ)まつり」が開催されている。毎年10月28日に盛大に催され、彼の墓前には、サツマイモや花が供えられる。境内には、露店が軒を連ねて、大学イモやサツマイモのスイーツに舌鼓を打ちながら歩く若い女性など、多くの人でにぎわう。この「甘藷(かんしょ)まつり」、以前は甘藷(かんしょ)先生の命日である10月12日に行われていたが、戦後から、目黒不動の縁日に合わせて28日に行われるようになった。
また、境内には甘藷(かんしょ)問屋の組合が建立した頌徳碑(しょうとくひ)(偉人などの徳をほめたたえる文章を刻んだ碑をこう呼ぶ。)も残っている。