カルタDEめぐろ1-目黒の筍と正岡子規の俳句


20世紀初頭、筍と言えば目黒でした。筍の栽培方法も「目黒式」と言われるほど、有名でした。
現在では世田谷区でわずかに目黒式で栽培する農家が残るのみとなりました。
19世紀末の俳人、正岡子規は、目黒で筍飯を食べた思い出を、次の俳句に詠んでいます。
「筍や目黒の美人ありやなし」
筍飯を食べた店は、牡丹亭だと言う。目黒不動門前では当時、角伊勢、大国家、内田屋などが有名で、牡丹亭はない。古島の話によれば、店の前に咲きかけた牡丹があったという。牡丹のある店という意味で詠んだようだ。
1894年3月の思い出を「歳旦帳(さいたんちょう)」に記されている。
2歳上の先輩である古島一雄に誘われて、彼は大宮公園に出掛けたとある。根岸の子規庵からそんなに遠くはない、桜はまだ咲かず、引き返して目黒の牡丹亭とかいう店で、筍飯を注文する。
注文した筍飯を持ってきて給仕してくれたのは17~8才の娘だった。
溢れるばかりの愛嬌のある顔に、うぶなところがあって、彼は独り胸を躍らしていたそうである。
子規は「うたた寝に 春の夜浅し 牡丹亭」の句を読んでいる。 
暫くの間雑談にふけっていたが品川に回って帰ることになり、その娘が、送っていくと小提灯を持って道案内をしてくれる。
藪のある寂しいところで、ここから田圃道をまっすぐに行くのだと教えられて、小提灯を渡される、
その時、娘は、ちょっと待ってと云って、暗闇の中で小石を拾って来て、小提灯の中に落として、「さようならご機嫌よろしう。」と言って、今来た道を戻り、闇の中にその姿は消えていった。
小石を小提灯の中に落としたのは、おまじないではない。「この先、私の代わりです。」とでも言ってくれたようにも思えたそうである。
 当時の筍飯は、今のように筍の炊き込みごはんでなく、江戸時代の料理書によると、
 「筍の柔らかな部分を塩ゆでにしてから小さく切る。飯は普通に炊き、沸騰が終り次第に弱火にする時に、飯の上の筍を置き炊き上げる。筍飯を器に盛り、吸い物味のだし汁をかけ、浅草海苔や山椒を添える」ものであったそうだ。
高浜虚子の俳句に「目黒なる 筍飯も 昔かな」がある。
1923年の関東大震災の後、宅地化が進んだ目黒懐かしんだ一句である。この頃にはもう目黒の竹林はわずかとなっていた。

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